いちじくは実だけの香りじゃない -- 地中海の木がまるごと香る、夏のグリーンノートの物語
木陰でいちじくを割ったときの、あの匂い
地中海の夏を思い浮かべてください。といっても私は南仏に別荘を持っているわけではなく、思い浮かべているのは完全に写真と人の話の受け売りなのですが。
カラッと乾いた強い日差し。石壁。そして庭の隅に一本、いちじくの木。
熟した実を割ると、甘くてミルキーな匂いがします。でも不思議なのは、その実の匂いだけが「いちじく」じゃないことです。木陰に立つと、葉っぱの青くて少し苦い匂い、枝を折ったときに出る白い乳のような匂い、幹の乾いた木の匂いが、ぜんぶ混ざって漂ってくる。
フィグ系のルームフレグランスを嗅いだとき、私たちが「ああ、いちじくだ」と感じているのは、実は果実の匂いではありません。木が一本まるごと香っている、あの感じなのです。

種明かし:「いちじくの香り」は、この世に存在しない
ここで少し意地悪な事実を置きます。
バラには精油があります。ラベンダーにもあります。白檀にも、柚子にもあります。摘んで、蒸留して、瓶に詰めれば「その植物の香り」が取り出せる。
ところが、いちじくにはそれがありません。
実を絞っても、香水に使えるような芳香オイルはほとんど採れない。葉にいたっては、かつて「フィグリーフ・アブソリュート」という抽出物が使われていたのですが、2006年に国際的な香料の安全基準(IFRA)が、これを事実上の使用禁止にしました。葉に含まれるソラレンという成分が、紫外線に当たると肌に強い炎症を起こす光毒性を持っていたためです。
つまり、今あなたが部屋で漂わせている「フィグの香り」の中に、本物のいちじくは一滴も入っていません。
では、あの夏の木陰は、どこから来ているのか。
答えは、まるごと作りものです。調香師が、いちじくという植物の記憶を、分子を組み合わせて一から再構成(リコンストラクション)している。バラやラベンダーが「自然から取り出した香り」なら、いちじくは「自然をまねて建て直した香り」なのです。
一本の木を、三つの分子で建てる
では、調香師は何をどう積み上げているのか。ざっくり三層あります。
- 葉のグリーン — ステモンという分子が、いちじくの葉を折ったときのあの青くて少し苦い匂いを担当します。ガルバナムやカシスにも通じる、鋭い「青さ」です。ここに、刈ったばかりの草の匂いの正体であるシス-3-ヘキセノールが足されて、葉脈の生っぽさが出ます。
- 実のミルキー — γ(ガンマ)オクタラクトンというラクトン系の分子が、熟した実のクリーミーで、どこかココナッツめいた甘さを作ります。フィグが「甘いのに、お菓子っぽくはならない」のは、この乳っぽさのおかげです。
- 木のウッディ — シダーなどの乾いた木の香りが土台に敷かれて、幹と、夏の乾いた空気を支えます。
青い葉、甘い乳、乾いた木。普通に考えれば喧嘩しそうな三つを、一本の木という「物語」のもとに同居させる。フィグの香りが涼しげなのに甘く、甘いのにベタつかないのは、この三層が絶妙な距離を保っているからです。
香料の世界では珍しく、これは「写生」ではなく「作文」です。いちじくの香りは、最初から最後まで、人が書いた文章なのです。

木まるごとを香らせた、一人の調香師
この「木を一本まるごと香らせる」という発想を香水の世界に持ち込んだのが、フランスの調香師オリヴィア・ジャコベッティ(Olivia Giacobetti)です。
1994年、彼女はラルチザン・パフューム社のために『プルミエ・フィギエ(Premier Figuier、最初のいちじくの木)』を作ります。これが、いちじくの木をテーマにした世界初のモダンな香水とされています。熟した実のふくよかさを中心に据えた、温かいフィグでした。
その2年後の1996年、今度はディプティック社のために『フィロシコス(Philosykos、ギリシャ語で「いちじくの友」)』を発表します。彼女はここで時計の針を数日巻き戻し、実が熟しきる手前の、葉と樹皮と土まで含んだ「木そのもの」を香りにしました。透明感のある、グリーンで涼しいフィグです。
実が主役の『プルミエ・フィギエ』と、木全体が主役の『フィロシコス』。この二本が、世界中の調香師に「いちじくはこう香らせるのだ」というお手本を残しました。今あなたが手に取るフィグ系のキャンドルやディフューザーの大半は、30年前にジャコベッティが書いたこの文章の、子孫たちです。
「最初のいちじくの木」という名前の香水が、世の中のいちじくの香りすべての祖先になっている。名前の付け方まで含めて、なかなか出来すぎた話だと思います。
香りは、夏をまるごと保存する
私がフィグの香りを好きなのは、たぶん香りそのものより、それが連れてくる季節のせいです。
ひと嗅ぎで、行ったこともない地中海の木陰や、子どものころに食べた庭のいちじくや、夏のはじめの少し緑くさい空気が立ち上がる。実際には人工的に組み立てられた分子の集合なのに、こちらの記憶のほうが勝手に「夏」を再生してしまう。
香りが記憶を引っぱり出すこの仕組みは、いわゆるプルースト効果と呼ばれるもので、別の記事(プルースト効果と香りの記憶)でもう少し掘り下げています。面白いのは、香り自体が「本物かどうか」を、記憶はまったく問わないことです。再構成された人工のいちじくでも、こちらの夏はちゃんと立ち上がる。
つまりフィグの香りは、自然から取り出した標本ではなく、夏という季節を圧縮して保存した缶詰のようなものです。中身は作りものでも、開けた瞬間に出てくる景色は本物。
この夏、部屋に一本の木を
6月になり、そろそろ夏の入り口です。
もし今年、部屋に夏を一つ置きたいと思ったら、フィグ系のお部屋用キャンドルやディフューザーは良い候補になります。青すぎず、甘すぎず、暑い季節でも重くならない。「いちじく」「フィグ」「フィグリーフ」と書かれた空間用フレグランスを選べば、だいたいあの三層の木陰が部屋に立ちます。
本物のいちじくの木は地植えで大きく育って、世話も剪定もそれなりに大変ですが、香りなら、火を灯すかリードを挿すだけで一本の木が部屋に立ちます。手入れもいりません。地中海の別荘は無理でも、地中海の木陰のほうは、わりと現実的な値段で手に入ります。
素材の物語をもう一本というときは、夜明け前のバラ畑の話 や 白檀5000年の旅 もどうぞ。どれも、瓶や部屋の中に「どこか遠くの景色」を閉じ込めた話です。
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