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夜明け前のバラ畑 -- ダマスクローズが朝にしか摘まれない理由

ストーリー
ローズダマスクローズブルガリア香水の素材蒸留

ブルガリア、5月のカザンラク

5月下旬、ブルガリア中部のカザンラクという町で、人々は午前4時には畑にいます。まだ星も少し見える時間です。摘み手たちは無言で、できるだけ静かにバラを摘みます。

話し声を控えるのは、隣を気遣ってのことではないらしい。息を急がせると花の香りが飛ぶ、という言い伝えがあるのだそうです。

太陽が地平線の上に出て、空気が温まり始めると、彼らは仕事を切り上げます。だいたい朝の8時から9時の間。それ以降に摘んだバラは、もう「使えない」のです。

私はこの話を最初に読んだとき、観光客向けの演出だろうと思いました。早朝の儀式、無言の収穫。話を盛りすぎでは、と。でも調べていくと、これは儀式ではなく、化学的な必然の話でした。

香りは熱と光に弱い

ダマスクローズ (Rosa damascena) の花弁には、シトロネロール、ゲラニオール、フェニルエチルアルコールといった揮発性の芳香成分が詰まっています。揮発性、というのは「すぐに飛んでいく」という意味です。

陽が昇って気温が上がると、これらの成分は文字通り空気中に逃げていきます。日中に摘んだ花を絞っても、収量が大幅に減ってしまう。早朝の花と比べて、精油の量で数倍の差が出るそうです。

それで彼らは星のある時間に起きて、太陽との競争をしながら花を切ります。労働として相当しんどい話ですが、香水の品質はここで決まります。

ブルガリア・カザンラクのバラ畑、夜明け前の収穫

1グラムの精油に5000輪

摘んだバラはその日のうちに蒸留されます。これも待ちません。花弁が酸化して香りが変質する前に、銅製のアランビック蒸留器に投入されます。

蒸気と一緒に上がってきた油分を冷やすと、水と精油が分離します。この精油の収率が、想像を超えるほど低い。

ダマスクローズ精油1グラムを得るのに、おおよそ4000から5000輪のバラ。50ミリリットルの香水瓶のなかに精油が5グラム入っているとすると、それだけで2万から2万5千輪の花が必要な計算になります。

「香水の中に庭がひとつ入っている」と書くと詩的ですが、実際には庭ひとつでは足りません。バラ畑1枚分の花が、瓶ひとつに収まっています。

1グラムの精油に必要な花の量

ダマスクローズはなぜ「ザ・ローズ」なのか

世界中のローズオイル生産量の7割以上が、カザンラク周辺、通称「バラの谷」(Rose Valley) で生まれます。残りはトルコ、モロッコ、イラン、フランスのグラース。

ダマスクローズの名前は、シリアのダマスカスから来ています。12世紀の十字軍の時代に、騎士たちが東方からヨーロッパへ持ち帰ったというのが伝統的な説です。最近の遺伝研究では中央アジア起源説も出ていますが、いずれにしても古い歴史を持つ品種です。

香水業界では特定の場所の風土を「テロワール」と呼びます。ワインで使う言葉ですが、香りの世界でも同じ概念があります。同じダマスクローズでもブルガリア産とトルコ産で香りが違う。土壌、気候、品種の微妙な差が、最終的に瓶のなかの香りに刻まれます。

空間でローズを楽しむ方法

ローズオイルは香水の中心素材ですが、家庭で空間用に楽しむ場合はローズウォーター (バラ蒸留水) のほうが現実的です。蒸留の副産物として出る液体で、価格はオイルの何分の1にもなります。

ルームスプレーとして空気中に広げると、生のバラとは少し違う、落ち着いた香りが立ちます。蒸留を経た香りは、生花よりもどこか整理された印象があります。精油成分のバランスが、花の中での状態とは少し変わるためだそうです。

5月-6月の自分の部屋に、新緑とは違う花の香りを置きたいとき、ローズウォーターのスプレーは候補に入れる価値があります。キャンドルやリードディフューザーで「ダマスクローズ使用」と明記されたものを選ぶと、香りに深みがある場合が多いです。

朝の畑が瓶のなかにある

最高級のローズ香水を嗅いだとき、私たちが感じているのは、ブルガリアの誰かが午前4時から8時の間に手で摘んだ花の集合体です。太陽が出る前の数時間が、瓶のなかに保存されている、という見方ができます。

ロマンチックに聞こえますが、実態は化学と労働の話で、揮発性成分と日射と摘み手の腕の話です。それでも、瓶を開けるたびに夜明け前の畑が一瞬だけ自分の部屋に立ち上がる。そう思っておくと、香水との付き合い方が少しだけ変わるかもしれません。