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白檀(サンダルウッド):マイソールの森が消えても、私たちが嗅ぎ続ける理由

ストーリー
白檀サンダルウッド香りの歴史マイソール仏教ルームフレグランス

お線香に火をつけた、その先

実家に帰って仏壇の前に座ります。父がいつも使っているお線香に火をつけて、煙が縦にすっと立ち上がる瞬間、いつも同じことを思います。

「ああ、白檀の匂いだ」

何百回も嗅いだ匂いです。子どものころから、お盆と命日と、たまに母が思い立って線香を焚いた朝に。私にとって白檀は、お寺と仏壇と、夏の暑い日の畳の匂いとセットになった香りでした。

ただ、最近少しだけ気になっていることがあります。

私が今、リビングのディフューザーから漂わせている「サンダルウッド」のお洒落な香りと、実家の仏壇のお線香は、本当に同じ植物の話をしているのだろうか。さらに踏み込めば、その仏壇のお線香に入っている「白檀」は、本当に白檀なのだろうか。

少し意地悪な問いを立てると、世界が崩れます。「ロイヤル・ツリー」と呼ばれた一本の木が、5000年かけてここまで運ばれてきた話を、これから書きます。

白檀の旅路:マイソールの森から日本のリビングまで

推古3年、淡路島に流れ着いた木

『日本書紀』に、こんな話が出てきます。

推古3年(西暦595年)の夏、淡路島の海岸に大きな木が漂着した。島民が薪にしようと火にくべたところ、得も言われぬ良い香りが立ち上った。驚いた島民はその木を朝廷に献上した、と。

これが日本における「香木」の最初の公式記録です。流れ着いた木は沈香(じんこう)だったとされていますが、白檀もこの時期、ほぼ同時に仏教伝来の流れに乗って日本へ渡ってきました。

仏教が公式に伝来したのは538年(または552年)。経典と仏像と、そして香りも一緒にやってきた。経典を読み、仏像を拝み、香を焚く。この三点セットが、6世紀の日本に同時に上陸したわけです。

面白いのは、仏像を彫る素材として白檀が選ばれた点です。木そのものが、削っても削っても香り続ける。仏像が「ありがたい」と感じられる物理的な理由が、そこには明確にあったわけです。

半寄生の樹、樹齢30年の沈黙

白檀という植物が、どれほど風変わりな存在か。これは知っておく価値があります。

学名 Santalum album。インド、マレー諸島、北オーストラリアの熱帯地帯に自生するビャクダン科の中低木です。

そして、半寄生植物(hemiparasitic plant)です。

聞き慣れない言葉ですが、構造はシンプル。自分でも光合成をしますが、それだけでは足りない。地中で他の樹木の根に吸着し、養分と水を分けてもらいながら育ちます。「自分の足で立っているふりをして、隣人にこっそり頼っている」と言うと身も蓋もありませんが、植物としてはそういう生き方です。

これが厄介なのは、栽培の難易度を跳ね上げる点です。白檀だけ植えても育たない。寄主となる別の植物(インドではアカシア類などが選ばれる)を一緒に植え、その関係性が成立してはじめて、白檀は地中に根を張れます。

そして、もうひとつの特徴。

香りを放つ「心材(heartwood)」が形成されるまで、最低でも10年から15年。商業利用に耐える品質になるまで20年以上。最高品質と呼ばれるレベルに達するのは樹齢30年から50年です。

つまり、今あなたが嗅いでいる白檀の香りは、ある木の場合、平成元年に生まれた木が大人になってからようやく作り出した心材を、削って蒸留したものかもしれない。30年待たないと、本当の意味で香り始めない樹です。

「人類のほとんどの作物は1年で収穫できる」という当たり前を、白檀は静かに踏み倒してきます。これだけでも一本の物語として十分です。

マイソールの森と、「ロイヤル・ツリー」

白檀の最高峰は、長らくインド南部の都市・マイソール(カルナータカ州)の周辺で採れるものでした。

世界の調香師たちはこのマイソール産を「The Royal Tree(王の樹)」と呼び、香水のベースノートに、お線香の主役に、彫像の素材に、これを使ってきました。1792年、マイソール藩王国は白檀を「王室の独占財」と宣言し、伐採には許可が必要になります。植民地時代、独立後のインド政府もこの規制を引き継ぎ、白檀は「国家管理の樹木」として20世紀のかなり長い時期を過ごしました。

ところが、規制があるからこそ、闇市場が育ちます。

1990年代以降、需要の急増と、密伐の組織化と、白檀立枯病(sandalwood spike disease)と、自然火災が同時に進行しました。気がついたとき、野生のマイソール白檀の個体群は、本来の生息地の30%未満にまで縮小していたのです。

国際自然保護連合(IUCN)は1998年、Santalum album をレッドリストの「Vulnerable(絶滅危惧II類相当)」に指定します。これ以降、私たちが「マイソール産」とラベルされた白檀製品を購入できる頻度は、目に見えて減っていきました。

「The Royal Tree」は、ほぼ消えかけたわけです。

代わりにやってきた、もうひとつの白檀

森が消えても、需要は消えません。香水ハウスもお線香メーカーも、誰かにこの香りを供給しなければならない。

そこで現れたのが、二つの選択肢でした。

ひとつは、オーストラリア産白檀(Santalum spicatum)。学名が示す通り、インド産とは別種です。香りはインド産よりやや乾いた、少し樹皮寄りのトーン。「マイソールの代用」と言われ続けて長いですが、近年は持続可能な大規模プランテーション(西オーストラリア州)が安定供給を担うようになり、独自の評価を獲得しつつあります。

もうひとつは、合成サンダルウッド。

1990年代半ば、香料業界では「サンダルウッド軍拡競争」と呼ばれる現象が起きていました。Givaudan、IFF、Firmenich、Symrise。世界の主要香料メーカーが、こぞって白檀の香りを再現する分子を開発し、特許で囲い込んだのです。

象徴的なのが、1996年にスイス・デューベンドルフのGivaudan研究所で誕生したJavanol(ジャバノール)。化学者イェジー・バイグロヴィッチ(Jerzy Bajgrowicz)の研究チームが、嗅覚受容体に「ほぼ完璧に」収まるよう設計した分子で、Givaudanが先行して持っていたEbanol(エバノール)を超える完成度と評されました。

近年、あなたが街でふと嗅ぐ「サンダルウッド系」の香水やルームフレグランスのかなりの割合は、Javanolか、その親戚たちです。多くの場合、本物の白檀オイルがほんの少しだけ混ざっていて、そこに合成分子が「足りない部分」を肉付けしている。あるいは、本物がまったく入っていないこともあります。

ラベルだけでは、もはや判別がつきません。

仏壇のお線香は、何でできているのか

ここで、最初の問いに戻ります。実家の仏壇のお線香は、本当に白檀なのか。

正直に答えると、ものによります。

老舗の高級線香に「マイソール白檀使用」と銘打たれた商品は、確かに本物が一定割合入っています。一方、量販店で買うお手頃価格のお線香の場合、白檀の香りはオーストラリア産か、合成分子か、あるいはその組み合わせで作られていることがほとんどです。

これを「ニセモノだ」と憤るのは、少し違うと私は思います。

なぜならインドの森を守るためには、需要を分散させるしかない時期に、私たちは生きているからです。樹齢30年の樹を、毎日のお線香のためにすべて使ってしまえば、次の30年に渡せる白檀がなくなる。「合成分子で置き換えていい場面」は、実はマイソールの森を未来に残すための、消極的な貢献でもあるわけです。

ロマンチックな話ではありません。でも、現実に今この瞬間、私たちのリビングのディフューザーが、遠く離れたカルナータカ州の森林管理に間接的に関わっている。そう考えると、ラベルの裏側にある選択は、もう少し誠実な顔をして見えてきます。

それでも、私たちが嗅ぎ続ける理由

5000年。

エジプトの遺跡からも、古代インドのアーユルヴェーダ文献からも、中国の仏教経典からも、白檀の名前は出てきます。仏教が日本に渡ってきた6世紀以降、お線香、扇子、数珠、茶香炉、香袋。日本人の生活の周辺には、ずっと白檀がいました。

植物学的に言えば、半寄生で、30年待たないと香らなくて、過剰伐採で絶滅危惧で、合成分子に半分置き換えられた、ややこしい樹です。商品開発の効率からしたら、たぶん最悪の素材です。

それでも、私たちはこの香りに帰っていきます。

実家の仏壇でお線香に火をつけた瞬間、私は「白檀」という単語を思い浮かべる前に、子どものころに祖母の家で嗅いだ夏の畳の匂いを思い出します。リビングのディフューザーから漂うサンダルウッドのモダンな香りが、ふっと寺院の暗がりや、京都の扇子屋の奥の棚を連想させる。記憶のどこかに、私たちは白檀を植えてきてしまったのです。

マイソールの森が消えても、嗅ぎ続けます。

合成分子で代用されても、それを白檀と呼びます。

なぜなら、白檀という香りは、もはや一本の樹のことではなく、5000年分の人類の記憶の総体だからです。樹は減っても、記憶は減らない。私たちが嗅いでいるのは、おそらく半分くらいは記憶です。

今夜、もしあなたのリビングにサンダルウッド系の何かがあるなら、ラベルを少しだけ確認してみてください。「Santalum album」の文字があれば、それは樹齢何十年かの本物の心材から来ています。なければ、たぶんそれは1996年にスイスで生まれた分子です。

どちらでも、それは白檀です。

5000年生き残ってきたこの香りの一部に、あなたも今、参加しています。

香りと記憶の関係については、プルースト効果の記事 でもう少し掘り下げています。素材の物語をもう一本、というときは ラベンダーの2000年史 もどうぞ。