なぜラベンダーは「万能の香り」になったのか -- プロヴァンスの畑から私のリビングまで
7月のプロヴァンス、紫の絨毯
フランス南東部、ヴァランソル高原。7月になると、視界の端から端まで紫色で埋まります。風が吹くたびに甘く、少し青い香りが波のように寄せては返す。
ラベンダー畑の写真は何度も見たことがありました。でも実際に立ってみると、スケールが違う。紫の色が、空気の匂いが、蜂の羽音が、一度に押し寄せてくるのです。
この感動を日本に持ち帰って友人に話すと、十中八九こう返ってきます。
「ラベンダーって、おばあちゃんのタンスの匂いでしょ?」
まあ、わかります。私も子どもの頃、祖母の押し入れから漂う紫色の匂い袋が「ラベンダーの全て」だと思っていました。でも2000年の歴史を持つ香りを、タンスの匂い袋で片づけるのは少し乱暴です。

“洗う”から始まった香り
ラベンダーの名前は、ラテン語の「lavare」に由来します。「洗う」という意味です。
紀元1世紀、古代ローマ。公衆浴場(テルマエ)は市民の社交場でした。人々は浴槽にラベンダーを浮かべ、その香りの湯で体を清めた。殺菌効果があるとされていたラベンダーは、単なる入浴剤ではなく、衛生と文明の象徴でもあったのです。
ローマの軍医ディオスコリデスは著書『薬物学(De Materia Medica)』の中で、ラベンダーを「貴重な植物」と記しています。ローマ兵は遠征先にラベンダーを携行し、傷の手当てや虫除けに使いました。博物学者プリニウスの時代には、ラベンダーの花は1ポンドあたり100デナリウスで取引されていた。兵士の日給が1デナリウスだった時代に、です。
つまりラベンダーは、2000年前の時点ですでに高級品でした。おばあちゃんのタンスどころの話ではありません。
ペストと泥棒と、ラベンダーの酢
時代は飛んで、1630年のフランス南部、トゥールーズ。ペストが街を覆っていました。
死者の家に忍び込んで金品を盗む泥棒たちがいた。不思議なことに、感染者の衣服や持ち物に直接触れていたはずの彼らは、ペストにかからなかった。
逮捕された4人の泥棒は、釈放と引き換えに秘密を明かしました。セージ、タイム、ローズマリー、そしてラベンダーを漬け込んだ酢を全身に塗っていた、と。
「四人の泥棒の酢(Vinaigre des quatre voleurs)」。この名前で伝わる伝説です。
冷静に考えると、酢にハーブを漬けただけでペストを防げるわけがありません。ペストはノミが媒介する感染症で、酢の殺菌力程度ではどうにもならない。ハーブの強い匂いがノミを遠ざけた可能性はありますが、単に運が良かっただけかもしれません。
でもこの逸話が人々の心をつかんだのは事実です。約100年後の1720年、マルセイユでペストが再流行したとき、「マルセイユの酢」として改良版が出回りました。1748年には、このレシピがフランス薬局方(CODEX)に正式登録されています。
科学的根拠は怪しくても、「とりあえずラベンダーを入れておけば安心」という信仰は本物でした。考えてみれば、現代の「とりあえずラベンダーのディフューザーを置いておけば間違いない」という感覚と、構造は大して変わりません。
グラースの丘に、紫が広がる
19世紀。フランス南東部の町グラースは、世界の香料産業の中心地になりつつありました。
グラースには、16世紀から皮革産業がありました。当時のなめし加工は強烈な悪臭を放ちます。そこで職人たちは、手袋にジャスミンやローズ、そしてラベンダーの香りをつけて売った。やがて手袋の需要は減り、香料だけが残りました。臭い消しが本業を追い越してしまったのです。
1759年、グラースに調香師ギルドが設立されます。ラベンダーはその調香パレットの基幹素材でした。
プロヴァンスの高地に自生していたラベンダーは、19世紀に入ると計画的に栽培されるようになります。1920年の時点で、フランスのラベンダー精油生産量は年間70トン。ただし、このうち90%はまだ野生のラベンダーからの採取でした。
転機は1930年頃。ラバンジン(lavandin)という交配種が見つかります。真正ラベンダーとスパイクラベンダーの自然交雑で生まれたこの品種は、精油の収量が格段に多かった。1960年までに生産量は130トンに増加し、その90%が栽培由来に逆転します。
現在、プロヴァンスでは約1,700の生産者が約25,000ヘクタールでラベンダーとラバンジンを栽培しています。あの紫の絨毯は、自然にできたものではありません。数百年かけて人間が作り上げた風景です。
5キログラムの種子、海を渡る
1937年(昭和12年)の春。
曽田香料株式会社が、フランスのアントワン・ヴィアル社からラベンダーの種子5キログラムを入手しました。北見、千葉、倉敷の各農事試験場で栽培を試みた結果、北海道が生育適地であることがわかります。札幌郊外で本格的な試験栽培が始まり、1942年にはラベンダー精油の生産が開始されました。
戦後の1948年、上富良野の農家たちが新聞でこの取り組みを知り、曽田香料との委託栽培契約を結びます。北海道の冷涼な気候が、プロヴァンスの高地によく似ていたのです。
1953年、21歳の富田忠雄が上田美一のラベンダー畑に出会います。5年間の準備を経て、1958年に妻の幸子とともにわずか1,000平方メートルの畑でラベンダー栽培を始めました。最盛期の1970年、北海道全体のラベンダー栽培面積は235ヘクタール。約250戸の農家が紫の畑を営んでいました。
そして崩壊は、あっけなくやってきました。
1972年、合成香料の技術が進歩し、安価な輸入香料が市場を席巻します。ラベンダー精油の買い取り価格は暴落。翌1973年、香料会社は買い上げを完全に中止しました。農家たちはラベンダーの株をトラクターですきこみ、別の作物に切り替えていった。
富田忠雄は、すきこまなかった。
なぜ残したのか。理由は記録に残っていません。ただ、1976年に起きたことを見ると、その判断が正しかったとしか言いようがない。国鉄(現JR)のカレンダーに、富田のラベンダー畑の写真が採用されたのです。一面の紫の丘を列車が走り抜ける一枚。全国に配布されたそのカレンダーを見た人々が、北海道の小さな農場を目指し始めました。
香料としては終わったラベンダーが、風景として生き返った。
富田は翌年からポプリやサシェの販売を始め、1984年にはオリジナル香水「FURANO」を開発します。現在、ファーム富田には年間約100万人の観光客が訪れます。プロヴァンスの種子5キログラムから始まった物語が、北海道の夏の風物詩になるまで、50年。
おばあちゃんのタンスから、リビングへ
さて、話をタンスに戻しましょう。
日本でラベンダーが「古い」イメージを持たれがちなのは、芳香剤やサシェの定番として長く使われてきたからです。防虫の用途でも重宝されてきたラベンダーは、タンスや押し入れの常連でした。その記憶が強すぎて、「ラベンダー=おばあちゃんの家の匂い」になってしまった。
でも最近のルームフレグランス市場では、ラベンダーはむしろ再評価されています。単体ではなく、モダンなブレンドの「軸」として。
ラベンダー × セージ。ハーブ同士の組み合わせで、清潔感のある爽やかな空間になります。ラベンダー × シダーウッド。木の温かみがラベンダーの甘さを引き締めて、ユニセックスな印象に変わります。ラベンダー × ベルガモット。柑橘の軽やかさが加わって、朝のリビングにも違和感がありません。
共通しているのは、ラベンダーを主張させすぎないこと。おばあちゃんのタンスの問題は、ラベンダーが100%だったことです。現代のブレンドでは、ラベンダーは30%くらいの存在感で、他の香りを受け止める土台になっています。
2000年前のローマ人が浴槽に浮かべたのも、中世の泥棒が酢に漬けたのも、プロヴァンスの調香師がパレットの中心に据えたのも、富田忠雄がすきこまなかったのも、全部ラベンダーです。時代が変わり、用途が変わり、組み合わせる相手が変わっても、ラベンダーだけは残り続けている。
2000年、生き残った理由
ラベンダーを「万能」と呼ぶ人は多い。どこにでもある。何にでも合う。とりあえず失敗しない。
その評価は、どこか褒めているようで褒めていません。「無難」と「万能」は紙一重です。
でも、2000年生き残った香りに「無難だから」は通用しません。古代ローマの浴場で使われ、ペストの時代を生き延び、グラースの調香師に欠かせないとされ、北海道で一度死にかけてなお復活した。ラベンダーがどの時代にも居場所を見つけてこられたのは、「何にでも合う」からではありません。「どの時代の人間も、同じように惹かれる何かがある」からです。
万能という評価は、侮りではない。2000年分の敬意です。
今夜、もしリビングのディフューザーにラベンダーの香りがあるなら、少しだけ意識を向けてみてください。古代ローマの市民も、中世フランスの泥棒も、プロヴァンスの農家も、北海道の富田忠雄も、同じ香りを嗅いでいた。
おばあちゃんのタンスの匂い? まあ、それも間違いではありません。ただ、そのおばあちゃんの趣味は、2000年の歴史に裏打ちされています。
嗅覚のリズムが香りの感じ方にどう関わるかについては、こちらの記事で詳しく書いています。
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